I eat dirt (わしは土を食べるんだ)
そういうと畑の土をつかんでパクっと口に運び、ムシャムシャと食べ始めた。
それは、私が20代の頃、バックパック一つで訪ねたニューヨーク州の中央にあるちいさなちいさなアメリカ先住民オノンダガ族の居留地に彼らの文化とアイデンティティーを学ぶために、転がり込んだ家の長老の言葉だった。
人は決して土から離れてはいけない。土から離れれば離れるほど、人はダメになる。
「オノンダガ族の長老、通称ババ。ユーモアの絶えない人」
いつもユーモアを絶やさない彼は、重度の糖尿病で、足の先を切断していた。毎晩もだえ苦しむ様子を見ながら、週に一度透析に隣町の病院に送ることも私の仕事だった。
オノンダガ先住民は、高所に強い部族と言われていて、1000人ばかりの小さな居留地に住む年配の男性は、ほぼアイアンワーカーとして、あのワールドトレードセンターに携わったという。それを誇りに暮らしていた。
そんな彼らの誇りをよそに、ヨーロッパからやってきた侵略者により、先住民の文化になかった、アルコールや砂糖が彼らの体を蝕み、そして銃社会と隣り合わせた暮らしで、私が滞在している間も、酔っぱらった先住民男性が友人を銃で撃つという悲しい事件が起こった。糖尿病も蔓延していて、決して彼らが豊かで健康的な生活を送っているとは言えなかった。
毎日長老のご飯を作り、畑を手伝い、病院への送迎を手伝っていると、周りの住民が徐々にやってきて、オノンダガ族の歴史や神話、そしてアイデンティティーを話に来てくれるようになった。こんな暮らしだが、僕らの誇りはしっかりと今も次世代につながっているということを訴えているようだった。
彼の家の前に小さな畑があった。畑は地域の若者がボランティアで耕してくれ、そこに野菜を植えた。収穫した野菜はほとんど瓶に詰めてピクルスにして地下の貯蔵庫に保管した。何があっても部族が食料に困らないようにと。
私はビザを延長するために、長老のお友達を訪ねて、カナダにあるイロコイ連邦の6つの部族が共に暮らすシックスネーションズという居留地にしばらく滞在した。
そこでは、メディスンマンから薬草を学んだりしながら過ごし、その後、西はアリゾナ州のナバホインディアン居留地に向かった。
「次に向かったアリゾナ州のナバホインディアン居留地で羊飼いのお手伝い」
その3年後、長老は土に還った。
私は広島県北の三次市という里山に生まれた。
田んぼの水を張るときの泥の香り、牛小屋から田んぼに運んだ肥が発酵した匂いと湯気を立てている景色、トラクターの後ろをたくさんの白鷺が追いかけて虫を食べている姿などがあたりまえの景色として育ってきた。
「苗を植えた時の土の香りがする田んぼ」
土に実際に触れなくても、土を身近に感じて育った。でも土を意識することもなかった。長老に出会うまでは。長老は調子が悪くなると土を食べ、土の上にゴロンと寝転がった。動物は傷を負ったり病気になったりすると土の上に横たわってただじっとしてその治りを待つ。
人間も同じだ。
そういって土の上に横たわった。私の祖母が、亡くなったひいおばあちゃんはいつも畑の作業をしながら、畔で寝てたと教えてくれた。私も土の上でゴロンと寝るのが大好きだ。自然の一部になった気がするから。
そして、自給が大切だと春になると調子に乗ってたくさんの固定種や友人が繋いでくれた野菜の種や伯州綿の種をおろす。しかし、なまけものの性格のため、暑さと雑草の生命力に負けて、名実ともに野良栽培に。。。ちょっぴり収穫できた野菜や和綿の種をつなぐだけ。。。
そんなずぼらな私の暮らしに私の生まれ育った三次を流れる馬洗川のミネラルの塊である瀬織ともみがらくん炭、安芸太田の葦を基材にしたコンポストがやってきた。
「うちにやってきた広島県産の間伐材を使ったコンポストは同じく広島県北の木材を使ってリノベした空間にはすっと馴染んだ」
毎日の生ごみを入れて混ぜるだけ。ずぼらな私にもできる日々の日課やがて真っ黒でふかふかの土になり、畑や観葉植物、果樹の肥になる。そんなコンポストのある暮らしのおかげで私は土からなんとか離れずにいる。
本当はもっともっと土のそばにいたい。もっともっと動物でありたい。そう思いながら今日もパソコンの前に向かう日々。
人々よ、土から離れるな。
暮らしを耕す人_徳岡真紀さん Maki Tokuoka